9月11日〜9月13日鹿児島県奄美大島瀬戸内町を訪問して来ました。
●立地
 鹿児島市から南へ約380kmの洋上にある奄美大島の南に位置し、南に大島海峡をはさんで加計呂麻島、さらに南に請島・与路島と3つの離島を抱えている。総面積は239kuで、構成比は本島側58・13%、加計呂麻島32・38%、請島5・58%、与路島3・91%となっている。いずれも300〜400mくらいの山岳地が連なり、急傾斜となって海岸に追っている。海岸線はリアス式海岸を形成し、各集落がすべて海を望む位置にある。大島本島内では国道58号が住用村から南下し古仁屋に達する。
 町内には水深の深い入江が多く、特に薩川湾は天然の良港としてかつては軍港に利用され、現在も台風時の船舶の避難港の投割を果たしている。町域の87%を林野が占めるという地理的悪条件を克服するため、農業振興策の1つとしてソテツの資源確保に力を入れている。
現在ではサトウキビを一次産業の中核に据え振興を始めた。

●町の沿革と概況
 奄美大島が薩摩藩に属したのは慶長14年である。当時、薩摩藩は大島全島を7間切りに分けて藩政を行なっていたが、享保5年糖業政策の徹底を期するため、区域変更を行なった。この区域変更により、瀬戸内地域は東方(ひがほう、旧古仁屋地区)、渡連方(どれんほう、旧鎮西地区)、実久方(さねくほう、旧実久地区)に区分された。このため、各方の行政は与人が行なったが、明治4年廃藩置県が施行され、地方行政制度の改革が行なわれたので与人は戸長と改められた。その後、一部に若干の区域変更があったが、明治41年の町村制施行にあたって西方地区は現在の宇検村(当時うけんほうと呼称)に併されて焼内村(やけうちそん)となり、古仁屋地区は西方に属していた小名頼・阿鉄の両集落を併せて東方村、一方加計呂麻地域は渡連方と実久方を島併して鏡西村となった。
 その後大正5年再び区域の変更により西方は焼内村から分離して西方村となり、鏡西村は再度分離されて鏡西村と実久村になった。東方村は昭和11年、町制を施行、古仁屋町となった。このようにして本町内では区域の改編が幾度となく行なわれたが、昭和31年9月1日、町村合併促進法の適用を受けて、古仁屋町・西方村・鏡西村・実久村の4ヵ町村は合併して瀬戸内町として発足した。
 本町はもともと、その地域的特殊性に鑑み4ヵ町村住民の経済・文化・生活習慣等はほとんど同一的方向をたどってきていたため、古くから現在の宇検村を含めて対内外的にも「瀬戸内」という名で通していた。このためか、4ヵ町村合併時においては何等の障害もなく全住民一致団結して合併を実現した。なお、戦前の本町地内は、地域の特殊性(戦略上)によってわが国、陸海軍の要塞地として取り扱われてきた。特に大島海峡における海軍基地の価値は高く、これにより第二次世界大戦中は古仁屋市街地をはじめ、各集落とも多くの戦災を受けた。戦後は米軍占領下に置かれ、昭和28年12月漸く祖国復帰した。復帰と同時に国の強力な援助の下に奄美復興事業、引きつづき奄美振興事業が実施され、各種開発事業が進められている。また、昭和49年2月には町内に殆る自然風景の美しさが内外の注目を引き、奄美群島国定公園の一部に大島海峡全域が指定され、特に海底の景観は亜熱帯海洋性観光資源として高い評価を受けている。
義永 瀬戸内町長はじめ、昇 議員、岩井 議員、岡田 議員、福田 議員、向野 議員、
と地元の方の歓迎を受け奄美大島の現状説明を受け、
東京の離島政策の一端を紹介し懇親を深めました。

枝サンゴ

テーブルサンゴ
工業用土砂の海への流入により死滅したサンゴ群
7年間で半分位が死んでいるとの事でした。
   
正面:義永 町長、右:林 町議会議長、仲村 総務委員長、山下 文教厚生委員長、
稲田 副議長、林 経済建設委員長から瀬戸内町の予算90億円弱の中でインフラ整備、高齢者対策、産業の振興、観光の振興等多くの課題の説明を受けました。我々も都の情報を提供し、今後も都議会との交流もしたい旨お伝え致しました。

ガジュマルの木

デイゴ並木